第13回 石綿問題総合対策研究会に参加
1月24日・25日の二日間、「第13回 石綿問題総合対策研究会」が東京科学大学(旧東京工業大学)大岡山キャンパスで行われ、連絡会から7名が参加しました。
研究会のプログラムは「既存アスベストの調査、分析、管理、除去」「災害時の対応と対策」「医学的知見」「国や地域の取り組み」「労災・訴訟」などの12のセッションに分かれ、32人の講演者から石綿問題の現状について伺いました。
災害後の復興に関しての報告
阪神・淡路大震災(1995年)では、石綿が散乱する現場で石綿が除去されないまま建物解体が行われ、復旧・復興に尽力した作業員や公務員、被災住民ボランティアは粉塵の中をシートなし、散水なし、マスクなしで活動していました。2005年のアスベストショック以前の事であり、石綿飛散に関する危機意識が明らかに欠如していました。
それから30年。すでに17名が石綿疾病を発症、内2名がボランティアであることは本当に痛ましい。さらに環境省の不適切な調査は青石綿の現場であっても白だけが測定され、「石綿濃度」として公表されていると報告もありました。
能登半島の被災地では、現地に様々な解体事業者が関わっています。なかには石綿対策や廃棄物管理についての理解や対応が充分ではない現場があり、解体工事における熱中症や防護服の問題、除去工事後の完了検査など問題は多岐にわたっているのが現状です。
大震災の経験は、その後のアスベスト対策に必ず活かされなければなりません。
アスベスト被害者家族の実態について
小説『光る細い棘』を綴った作家の方政雄(パンジョンウン)氏は、尼崎での生い立ちや被害者家族の実態、弱者である労働者の視点からアスベスト禍を訴えたいと語りました。
方氏は高校時代に尼崎のクボタ鉄工神崎工場内にある下請け会社でアルバイトをしました。作業場内に淡雪のように積もった綿埃や塵を丸め、友人と投げ合って遊んだこともあったといいます。方氏の兄も同工場で石綿パイプを旋盤で削り、パイプを繋ぐ仕事をしていました。作業場一帯がパイプからの切粉で霧に覆われているようだったといいます。
兄は潜伏期間50年を経て6年前アスベスト疾患で亡くなりました。自身も60年ともいわれる潜伏期間中のわが身の発症を案じながら、方氏は石綿疾病患者への理解と精神的な苦しみを理解してほしいと訴えました。
“クボタショックから20年” 深刻な尼崎のアスベスト被害
尼崎労働者安全衛生センターの飯田浩氏の報告は、尼崎でのアスベスト被害者の多さを再認識させられるものでした。
クボタ鉄工への「救済金」請求の書類提出人数が2023年6月現在、422人(前年比+15)うち女性が190人(45%)。2023年末現在、クボタ鉄工旧神崎工場での労災認定は205人、さらに構内下請けの労災法定外補償決定17人を認識しているといいます。
「救済金」請求の422人に工場内の労働者被害者を合わせると600人をはるかに超えています。さらにクボタ旧神崎工場に石綿を運んで労災認定者となった日本通運、構内・構外でクボタの石綿パイプ関連などの仕事をした工場、クボタの直近で仕事をしていたために労災認定となったヤンマーなどの労働者を加えると、600人どころではありません。
労災認定の件数は2006~2022年度までに20,892件、(うち中皮腫10,852件、肺がん7,921件など)。尼崎では、同じ時期に452件(前年比16件増)の認定があったといいます。
被害者数をこのように数字に表して知ると、あらためてクボタ鉄工がこれほど多くの被害者を出した悲惨さを思い知ります。2005年のクボタショックから20年が経つ今日も、尼崎はアスベスト被害に脅かされているのだと感じました。
先月末、JR尼崎駅で何名かの連絡会会員と共に「あなたの病気はアスベストに関係ありませんか?」と書かれた見出しのビラを配りましたが、受け取ってくれた人は少なかったと感じます。クボタショックが起きたこの地であっても20年という月日がアスベストへの関心と脅威を消しさっているのでしょうか。
アスベスト労災基礎日額の是正
連絡会事務局の斎藤洋太郎氏の報告では、“労災には稼得能力の損失補填(ほてん)と災害補償責任という二つの原則があると説明がありました。20歳で石綿にばく露し、離職した場合、50歳で発症しても20歳の賃金水準で支払われているKさんの例を挙げ、20代にばく露しても、20代で中皮腫発症には至らないと、アスベスト労災の給付基礎日額の是正を、衆議院議員を通して厚労省と交渉しています。
この研究会では、専門的で理解が困難なセッションもあり、抄録は配布されたものの、録音は不可、撮影も不可で、テーマ内容の記録を詳しく残すのは容易ではありませんでした。石綿被害対策の現状を学び、知ることができ、大変貴重な機会を持てたと思っています。