アスベスト公害

相談担当 古川和子

相談担当古川 和子

クボタショックを振り返り、見えてくるもの
アスベストショック | 2007年11月1日発刊より転載

「Xデー」という言葉がある。
私が初めてこの言葉を耳にしたのは、三井物産の池で誕生したカルガモ親子が道路を横切って皇居のお堀へ「お引越し」する日は何時なのか、という記事だった。
以来、私にとっての「Xデー」は「次につながる日」となった。

まさに、クボタとの交渉の中でも幾つかの「Xデー」を迎えてきた。 あれから2年近く経ち、今ここで数々の「Xデー」を振り返ってみたい。

日本中を震撼させた「クボタショック」からやがて2年。(2005年)6月29日の毎日新聞夕刊で突然のスクープだった。 しかし、この5ヶ月前の1月には、朝日放送系のニュース番組で「住民が中皮腫発症」と紹介されていた。 「クボタ」の名前こそ出してはいないが、上空からの写真を見れば地域の人にとっては一目瞭然だった。 その時のニュースを見て「もしや……」と疑問を抱いていた人もいたことが後にわかった。

先日、尼崎市で起こったJR列車事故から二年の報道を見ていて、私も別の感動を込めて2年前を思い起こしていた。 列車事故があった4月25日の翌26日には、クボタの部長たちと患者三名が初めて会うことになっていたのだ。 面会場所は列車事故の起こった至近距離、JR尼崎駅近くのある公民館の一室を借りていた。 その前年10月から一人目の患者である土井雅子さんと出会い、彼女の発病した原因を調査していくうちに二人目の被害者、故前田恵子さんと知り合った。 そして、前田恵子さんの口からは、当時のクボタ旧神崎工場の様子について驚くような言葉がたくさん出てきた。 やがてもう一人の男性患者とも出会い、三人は勇気を持って「当時工場の中で何があったのか、クボタに聞いてみよう」と決まった。 3月のある日だった。その決心を受けて尼崎労働者安全衛生センターの事務局長・飯田浩さんが、当時同じく市会議員をしていた米田守之さんという元クボタOBの方に相談を持ちかけた。 驚いた米田議員は、早速クボタに話を持ち込んだ。「まさか!」というのが当初の彼らの反応だった、と聞く。 そのような経過を踏まえて、4月26日午後から私たちはクボタと会うことが決まった。

会ってどうなるのか?会ってみて何がわかるのか?あのような大企業が正直に認めるだろうか。 面会することが決まった後は、さらなる緊張感が湧いてきた。 緊張した中で迎えた前日の突然の「列車事故」のニュース。食い入るようにテレビ画面を見ている中である種の不安がよぎった。 「明日に予定されている面会は大丈夫だろうか?」考えてみれば、あのように大きな列車事故の中に、当事者を含めたその家族・知人が含まれていないとも限らない。

不安な思いで迎えた翌26日。予定通り患者三名とその妻、尼崎安全センターの飯田さん、関西安全センターの片岡さん、そしてクボタからは担当部長三名と橋渡しをしてくれた米田議員、そして私のメンバー11名が揃った。
「やった!」と私は心の中で拍手した。話し合いがどうなるのかはわからないが、綺麗にスタートが切れた……そのことに感動したのだ。そして生来私の楽天的な性格は「この話は『GOサイン』が出たのだ」と勝手に解釈していた。

話し合いの前に、クボタから資料が配られた。驚くほど詳細な資料に眼を見張った。 A3の用紙に事細かに、アスベストを使用していた時期と使用量、そしてその作業工程など。 用紙の右上には「マル秘」のマークが押印されていた。1枚1枚を丁寧に説明する担当部長。 その時に知った工場内の被害者の数には唖然として、話し合いの後に帰路についた私は、その数字ばかりが頭に浮かんできて、 少々気分が悪くなったものだ。というのは、私の認識の中での腹膜中皮腫患者は、胸膜中皮腫患者に比べてかなり少ないと思っていた。 それが、クボタの資料の中には驚くほどの数で発症していた。
「腹膜中皮腫は青石綿により発症することが多い」とかつて聞いたことがあったが、まさにその通りなのか。 私たちに考えられない状況で被害が発生していた…。このことに衝撃を受けるとともに 「工場の中でこれほどまでに被害が発生していたのに、工場の外にも石綿が飛散していないと思っていたのか」 という質問が繰り返された。この質問に対しては「工場の外にまで被害が及んでいるとは当時はわからなかった」との回答を繰り返すのみだ。

三人の患者は口々に、発病以来の苦しかった状況を語り始めた。 今もなお、抗がん剤治療を受けながら「死」に直面して家族とともに闘っていることを訴えた。 男性患者の奥様からは夫の発病以来の不安と苦しみが涙ながらに語られた。
「これは公害です」とそれぞれが訴えた。
「工場の塀一つ隔てたこちら側までアスベストが飛んでこないということが証明できますか」
「工場から、白い煙が舞い上がっていて火事だと思って駆けつけたら粉じんだった」(これは、コンクリートのミキサーが故障してセメントが舞い上がっていた。当時、近所の通報で消防車も出動したという返事)
「何時も工場の塀の外の道は白くなっていた」

発病以来、痛みと不安に苦しんできた患者さんたちは堰を切ったように語りだした。 しかし、その言葉の中に「補償」という文字は一度も無かった。発病した原因を知りたい。 クボタの工場の中でいったい何が起こっていたのか、そしてそれが自分たちの病気と因果関係があるのか……彼らの誰もがその答えを求めていたのだ。

2時間余りの話し合いは終わった。釈然としないままに時間が来たのだ。 最後に私は米田議員のもとに駆け寄り言った。「よろしくお願いします」と。 何故このような言葉が出たのかわからないが、三人の患者さんをよろしくお願いします、という想いを込めて私は頭を下げていた。 それは米田議員も後に「あの時のあなたの言葉が忘れられなくてね」と語っていた。

クボタの部長たちが引きあげた後に、私たちはまだ部屋に残って今後の対策を練った。 間違いなく踏み出した第一歩。日本で初めての「アスベスト公害」をどのようにして会社側に認めさせるか…… いや、それよりも絶対にクボタが原因だと言える確証をもっと模索しなければ。 当日配布された資料により「間違いない」という確信はあったものの、今後はどのように進めていくのかなど、真剣に議論した。
当時、クボタ内部では「(まだ原因もわからないので)会わない方がよい」という意見もあったようだ。 しかし、そのような中で米田議員の「堂々と会うべき」という強い意志が通った。 この米田議員は大変正義感の強い方であると聞いたことがある。

それからしばらくして、クボタ側から「見舞金」の話が出た。 「見舞金200万円」という提示に誰もが戸惑い、一様にクボタの真意が理解できなかった。 「工場の近隣住民の方が中皮腫を発症されて苦しんでおられることに対して、 永年当地で操業してきた当社として何かできるは無いかと考えて、お見舞をさせていただくことにしました」というものだ。 このお金を受け取ったら「今後は一切何も言わない」という条件付きなのか懸念すると、「お見舞金以上でも以下でもない」との答え。 即座に私は「受け取って下さい」と三人に勧めた。何のためらいも要らない。 クボタが近隣住民の中皮腫発症を認めて200万円支払うのだから。 今までは何も無かったのに「因果関係は不明だが近隣で中皮腫発症」という厳然とした事実が出来たのだ。

「今までの苦しんだことへの償いにはならないが、今後自分たちの被害状況を訴えていくための『心の肥し』として受け取ってほしい」と私は提案した。三人の意見もまとまった。 そして、その時にクボタが提示した「見舞金・弔慰金規定」なるものがあり、そこにはクボタの指定する医療機関名が書かれていた。 三人の見舞金が支払われた後に、飯田さんと私でその用紙を持って尼崎市内の病院中を回る計画をしていた。

「皆さん、中皮腫になった方はクボタから200万円支払われますよ!」と宣伝して被害状況の把握に努める予定だった。 そのような思惑を含みつつ、見舞金の受け渡し準備は進み、「Xデー」は近づいてきた。

実は、三名の患者さんの他にも既に死亡されている被害者がいたのだ。 ある時、関西労働者安全センターに労災申請の相談に来られたAさんという40歳代後半の男性だ。 彼は大学卒業後、大手のチェーンメーカーで設計の仕事をしていたが、中皮腫発症で休職中だった。 まだ学童期の子供を抱えていて、将来への不安を強く感じていた。

治療中の兵庫医大で同じく治療中の患者さんから紹介されたのだが、Aさんのアスベスト曝露が職場の中から浮かんでこなかった。 Aさんと知り合ったのは、私が土井雅子さんと出会った頃だったと思う。 Aさんは男性であり、それまでの私たちの認識では「職業曝露」しか考えられなかった。 しかし、かなり詳細に職歴を調べても曝露歴は浮かんでこなかった。労災申請は暗礁に乗り上げていた。 暗中模索の中で、ある「キーワード」が浮上してきた。

「小田南中学校」だ。どこかで聞いたことがある……「あ、そうだ土井雅子さんも小田南中学校に一年間通学していた」と気付いた私はAさんの居住歴を調べた。 なんと、尼崎で生まれて小学校・中学校までクボタから近い距離にいたのだ。 背筋がゾクッとしてきた。興奮してAさんに連絡を取り、再度事務所に来てもらったのは翌年の1月19日。 私の話に驚いた彼は「幼少期のことを母に聞きます」と言ったきり連絡が取れなくなった。 病状が急変したのでは、と心配するが一向に連絡が取れない。ある時、兵庫医大に行くと病室に彼の名前があった。 面会しようと病室を覗くと、Aさんのベッドは医師も駆けつけて緊迫した雰囲気だ。とても声をかけられなくて退散。 後になって、この日の夜、Aさんが逝去されたことを知った。 この時の無念さが私たちを駆り立てて「早くクボタへ申し入れをしなければ」と決心させたのだと思う。

あるご遺族のお家に伺った帰りの車の中。「毎日新聞が記事にしています!」と朝日放送のディレクターから突然の電話。 明日見舞金の支払いが行われるという事実を、早くから朝日放送はつかんでいた。 しかし、その前日に毎日新聞が夕刊でスクープしたのだ。
そして、朝日放送は午後3時のニュースで「周辺住民に見舞金」のテロップを流した。 日本中が騒然となった「クボタショック」の始まりだった。クボタの部長が記者会見をしているニュースを見て思った。「何故今頃?」と。

実は、5月28日に朝日放送がドキュメンタリー『終わりなき葬列』(副題 発症から30年、いま広がるアスベスト被害)を放送していたのだ。 そして、その時にはクボタの伊藤部長が朝日放送のインタビューに答えていた。 残念ながらテレビでは会社の実名が出なくて「大手機械メーカー」とだけなっていた。 何故、その時に企業名を出さなかったのかと担当のプロデューサーに尋ねたら、「古川さん、人は長い人生の中でいろんな関わりを持って生きています。 アスベスト曝露がクボタだと特定することは難しい。そのような確証の無い状態での実名報道は出来ません」との返事だった。

前日からの取材合戦の過熱もあり、見舞金支払いが行われる予定だった場所は二転三転した。 「何時でも連絡が取れるように携帯を離さないで」と飯田さんからの指示。 場所設定は難航した結果、ある会館を「安全懇話会」という名称で借りた。 親しくしてきたマスコミ関係者から「居場所確認」のための連絡が続々と携帯の留守電に入っていることも無視してその会館へ向かった。 部屋には既に、患者さん三名、クボタの部長たちと米田議員、飯田さんが揃っていた。緊張した中で行われた見舞金の支払い。 意外と簡素な領収書。懸念されていた「一筆書く」こともなく本当にお見舞金の支払いが行われた。

終了後、米田議員から「あの時の古川さんに言われた言葉がずっと心に残っていた」と聞いた。 「え? 何と言いましたか」「よろしくお願いします、と言われました」とにこやかに答えられた。 米田議員は、最初に会った時とは別人のごとくに顔が穏やかになっていた。
その後は、皆様ご存知のように患者さん三人揃って記者会見が行われ「これは、公害です」と日本で初めてアスベスト公害が発表された。 そしてそれ以後、私たちは幾つかの「Xデー」を迎えることとなった。

29日の毎日新聞夕刊から始まって、関西労働者安全センターの電話は頻繁になっていた。 翌30日には朝九時に事務所に行くと、既に非常事態だった。3回線ある電話を3人の事務局員で対応した。 しかし誰かの携帯電話が鳴ってそちらに対応すると、対応することが出来ない一本の固定電話のベルは悲鳴に近い音で鳴り響いている。
電話がかかるたびに、驚くような内容ばかりだった。 「夫が中皮腫で治療しています」「父が中皮腫で亡くなりました」……相談を寄せてきた被害者はあっという間に二桁になった。 そして関西安全センターの電話と同じように、尼崎の飯田さんの携帯電話にも想像を絶する数で相談があった。 当時の尼崎安全センターは「専従職員」がいなくて、他に仕事を持っている飯田さんが兼任していた。 だから、電話の連絡先は飯田さんの携帯番号が公表されていたのだ。

同じように、東京の「中皮腫・じん肺・アスベストセンター」にも問い合わせの電話が殺到した。 当然、所長の名取医師、事務局長の永倉さんは殺人的なスケジュールを受け入れることとなった。 我々ではなくて、尼崎市役所・保健所も降ってわいたようなアスベスト騒動に戦場となったと聞いた。
そしてこの瞬間から、未曽有のアスベスト公害が白日の下に晒されることになり、 飯田さんと予定していた「被害者発掘のために尼崎市内の病院回り」は必要が無くなった。

連日の電話対応の中で、私たちは疫学調査を奈良県立医大の車谷先生たちにお願いすることになった。 遡ること半年前の1月5日の夜、尼崎において車谷先生と大阪府立公衆衛生研究所の熊谷課長を招いて、 私たちが調べている被害情報をもとに今後の疫学調査について相談していた。 その当時は被害者がまだ数名だったので、今後の様子を見ながら……ということになった。

しかし数十万人にひとりの発症率だと言われていて中皮腫患者が、29日の報道以来、限られた地域で数十人も発生していることがわかったので事態は急変した。 車谷先生たちが調査を開始したのはクボタショックから1ヶ月後のことだった。8月のお盆休みも返上して連日の調査が続いた。私も可能な限り調査に同行した。 調査の終了が夜の9時近くなることもあった。

「古川さん、どのような生活をしているのですか?」とある時、車谷先生に尋ねられ「こんな生活ですよ」と私は笑って答えた。 連日、朝から夜まで走り回っていた私の生活への疑問だったのだろう。 しかし、その頃先生も昼間の大学の講義が終わると大阪まで出向いてきて調査をしていたのだ。 後にこの調査はクボタに対してのみならず、社会的に大きな意義あるものとなった。
一時は「本当にクボタのアスベストが原因なのだろうか?これほど多くの患者が発生するなんて信じられない。 原因はウィルスか何かではないのだろうか」と調査に関わった私たち自身も不安になったものだ。

最初の3人に支払われた見舞金の制度は、しばらくして新たな被害者の方たちに対して再開された。 その時は8家族位だったと記憶している。 クボタの部長たちから、工場のアスベスト使用状況等が説明されて、その後に個々のご家族の方たちの想いが語られた。

10数年前に若くして夫を失い、幼子を抱えて苦労された方。 妻を失ったが、その数年前に妻の弟も中皮腫で他界していたという男性。 息子の苦しみの原因がわかったけれども息子は帰ってはこない、と嘆く老婆。 ある会館を借りて支払を行っていたが、その会議室全体が涙と怒りに包まれた。

以後、週に1、2回のペースで数家族単位の支払いが行われてきた。 毎回、クボタの部長たちは「皆さん方のお話を個々にお伺いして、その悲惨な状況や苦しみ、 お怒りやご意見を全て筆記し、その日のうちに社長まで報告を上げています」と言った。そしてそれは現在でも同じだ。

毎回、被害者の苦しみを聞くうちに「このままではいけない。 会社としても何かをしなければ」という考えがクボタにも出てきたようだ。

最初の頃、クボタは見舞金・弔慰金の支払い時に必ず尼崎市内の大きな地図を広げて 「当社以外にもアスベストを扱っていた工場はある」と言っていたが、疫学調査報告が発表されて以来、 地図を広げることはなくなった。確かに尼崎は多くの工場があり、大気汚染も酷かった時代もある。 しかし、このように大量に中皮腫患者が発生することはクボタが原因以外には考えられない。
先に記者会見をした3人の患者たちからクボタに対して補償を求める動きが出てきた。 そして、それに続くような形で他の患者さんも体制を整えつつあった。 まずは治療中の方から早急な救済を……とクボタに対して申し入れを行った。

11月末のある午後、患者さんを中心にクボタとの話し合いが持たれた。 クボタから部長数名が出席した。治療中の患者の中には病院を抜け出してきた方もいた。 パジャマ姿にガウンを羽織って真剣に討議した。話が詰まってきた頃「社長の謝罪を!」という声が挙がった。 「そうだ、まず社長が患者と家族に対して謝るべきだ」「社長を出せ!」という皆の厳しい声に、苦渋の表情を浮かべる部長たち。 「私の命は僅かしかないのです。私の前で謝ってください」と涙する女性患者に、顔を上げられない部長もいた。 職務とは言え、このような苦しい状況の中に置かれた彼らに心なしか同情を感じた。

2回目のXデーは、それから約1ヶ月後の12月25日だ。
クボタの幡掛社長が「患者と家族の会尼崎支部」の集会に参加して皆さんに謝罪を行ったのだ。 「ご迷惑をおかけしました」と深々と頭を下げる社長。その時、私は社長の横に座していた。謝罪の後、会場の皆さんからいろんな意見が出た。 社長はその質問に対して「工場の外と中は差別をしない」ときっぱり答えた。この瞬間「救済金制度」へのスタートを切ったのだ。

クボタの社長が謝罪をしたことは大きく報じられた。そして私も大きな感動を覚えた。
患者と家族の会の皆さんの前で大企業の社長が、真摯に謝意を表した。 その丁度1年前の平成16年12月25日、私はドキュメンタリー番組制作会社のディレクター野崎朋未さんとともに前田恵子さんからクボタ周辺の状況を聞いたのだ。 その時から全てが始まった、と言っても過言ではない。それまでは「クボタが原因だ」と考えていたが、前田さんの話を聞いて「クボタに間違いない」との確信を得た。

それから1年経って、大きな展開となった。
この日、前田さんは体調が悪くて大変に苦しい中を頑張って参加していた。 前のテーブルに座っていた私からは前田さんの苦しそうな表情が見て取れた。 途中からは顔を上げることが出来なくて、テーブルにうつ伏せになっている。 「大丈夫かな……、万が一の時には退席の介助をしなくては」と考えていたが、最後まで前田さんは頑張った。 後で聞くと「しんどかったが死んでもこの会場から出るものか、と決心していた」そうだ。 そして、その後の記者会見まで参加してくれたのには驚いた。
このように、患者さんにとっては命を賭けてこの日を迎えていたのだ。 しかし補償交渉は今からだ。どのような形で、何時決まるのか? 社長の謝罪はひとつのハードルを越えたとは言え、まだ大きな課題を残していた。

クボタとの補償交渉を始めるに当たって、被害者の方たちの中から7名の代表を選出した。 全員の方がクボタとの交渉に当たることは困難だから、闘病中の患者さんをはじめ、親・兄弟・姉妹・配偶者を失ったそれぞれの立場の方から7名の代表を選んだのだ。 そして飯田・片岡・古川とともに10名で交渉を開始した。 場所は、クボタ阪神事務所の会議室だ。クボタからは、最初から対応に当たっていた伊藤部長はじめ数名の部長が参加した。
クボタへの補償要求は、尼崎支部集会において皆さん方の同意を得て決められていた。

交渉初日、緊迫した空気の中で交渉が行われた。 交渉が始まり彼らが述べた想いは、永い年月の間それぞれが抱えてきた苦しみが一挙に弾き出されたようであった。 中でも、闘病中の患者さんの言葉は大変に重いものがある。自身の命の重みを補償に置き換える交渉をしているのだ。 自分が逝った後に遺される家族への想いを切々と語った。その後数回にわたる交渉を経て出た「救済金制度案」を、4月15日の患者と家族の会で諮り合意に達した。
そして4月17日、クボタ・患者と家族の会と双方で記者会見を行い発表した。日本で初めて、裁判をしないで合意を得た公害事件となった。

この4年前の平成14(2002)年4月17日、私は初めて関東在住の遺族の方と出会った。 夫を亡くして以来、お互いに一人ぼっちだったけれども初めて「同じ境遇の仲間」に出会えたのだ。 そしてそれが患者と家族の会の原点になった。 一人ひとりの人間同士がつながってゆき、大きな輪になり、それがさらに大きな流れになってアスベスト公害を社会に問題提起することとなった。
前田恵子さんと二回目に会った時に「今までは一人ぼっちで闘病していたけれども、もう一人じゃないんだ」と喜んでくれた。 そして当初から「これは公害です」と訴えていた前田恵子さんは、新法施行日の平成18(2006)年3月27日に亡くなった。 それは、あたかも石綿新法の制定を見届けたかのようだった。

そして、この日は私にとっても生涯忘れることのできない日となっていたのだ。 私の夫はその5年前の平成13(2001)年3月28日に死亡した。 永年、関西電力の火力発電所の下請けとして勤務して、アスベスト使用の全盛期に真っ黒になって働いて、肺がんを発症したのだ。 夫が元気だった頃の口癖が「65歳まで頑張って働くから、それ以後はのんびりと暮らそう」だった。 その夫は還暦を迎えた翌日に亡くなり、5年後以降の人生設計はこの時に幕を閉じてしまった。
死出の旅立ちの前に迎えた還暦。病室に飾られた還暦祝いの「赤いチャンチャンコ」をうつろな眼で見ていた。 夫の死後、発病以来書き続けた私の日記には「命を助けることも出来なかった無念さ……」と書いてある。

そして夫の死によりこの活動を始めた私にとっては、 夫が目指していた65歳の誕生日である平成18(2006)年3月27日に石綿救済法が制定されたことはただの偶然では無いような気がしている。 当時「石綿救済法制定」が各新聞で報道されるたびに、新法制定というひとつの大きな節目を迎えたけれども「夫が生きていれば私は別の人生を歩んでいただろう……」と複雑な胸中だった。
このように、様々な人との出会いによって多くの問題が提起され、 失った命は次に続く人々の救済につながってゆくことは「命のリレー」であると私は信じている。

100名を超す多くの被害者を出したクボタ旧神崎工場周辺被害は、世界でも例を見ないほど早急に救済金制度設立という解決を得た。
もちろん、クボタという大企業だからこそ成しえた救済策であるかもしれないが、これはひとえに被害者が生の声を挙げたからに他ならない。
「一人ひとりは弱い存在だが、一人ひとりがその気になった時にドラマが生まれる」という 故田尻宗昭氏(かつて、多くの公害を摘発して公害Gメンと言われた)の言葉にあるように今回の事件はまさに大きなドラマが生まれた。
そして救済金制度にそって、皆さん方の救済金支払い手続きが行われていった。まずは、闘病中の患者さんから優先された。

救済金について交渉を行ったクボタの会議室には、一緒に闘ってきた患者とその家族の方たちが集まった。 「お久しぶり!」「お元気ですか?」という和やかな会話が交わされた。 あの時には大変に厳しい顔をしていた方も今日はにこやかだ。その顔には、大きな仕事を成しえた充実感と自信が満ちていた。
決してお金で健康や命は贖えないけれども、せめて生活の心配をしないで安心して治療に臨んでほしい……という私たちの想いが通じた証だろうか。

皆様方の都合を確認しながら日程の調整が行われて、手続きは複数のご家族単位で行われた。 そのような中にBさんご夫妻もいた。Bさんはいつもと違ってスーツにネクタイ姿で参加されたのだ。 その姿に私は非常に重いものを感じた。さらにはBさんの奥様が新しい通帳を差し出されて「このお金は主人の命です」と語った。 その言葉に対して私は「そうですね……」としか返事が出来なかった無念さは忘れることが出来ない。 順次手続きが行われた中で、今まで気づかなかった事実に愕然とした。

Cさんは、お母様が中皮腫で亡くなっていた。 そして、尼崎市の検診制度に沿って健診を行ったら、何とご兄弟3人が「要再検査」になり、現在は「要観察」状態だ。 救済金の手続きが行われる時には、このような新しい事実が判明することも多々ある。
手続きを行う時にクボタは必ず被害者からの生のご意見を拝聴し、その意見は即日社長の下に届くことになっているそうだ。 そして、その意見の中で「不安」を訴える声も多いことに私は改めてことの重大さを感じた。
「今回はこのような形で救済金制度が出来たが、私たちもアスベストを吸っているので何年か後に発病するかもしれないが、その時はどうなるのか?」という質問も多くあった。

以前に泉南の被害者の一人から「隠れアスベスト」という言葉を聞いたことがある。 確かに、発病はしないまでも同じ空気を吸ったことへの不安は拭い去れないものがある。 実際に、兄弟・親子での発病も確認されている。誰しも発病などしたくは無いが、万が一の発病時のことも確認しなければならない。 そのような質問が出る度にクボタの担当部長は「会社が存続する限り、救済金規定は存続します」と答えた。 今回の被害者限りではなく、クボタが石綿を使用していたとされる平成7年までの居住者に対しての救済を行う、というものだ。 勿論、そのような時期まで多くの方が発病することは考えたくも無い、というのが本心だ。

しかし、最小限の被害にとどまってほしい、もうこれ以上の被害者は出したくない……、という願いとは裏腹に、今でも多くの患者さんから連絡が入っている。 「2年前のクボタのニュースを見ている時には自分とは関係のないことと思っていたのに」と語る方も多い。 クボタ旧神崎工場のまん前にあった郵政の寮からは多くの被害者が出た。 「あっ! ○○さんだ!」とかつての知人が手続きの時に互いに判明することもあった。 先に書いたように決してお金では贖えないけれども、「今、何が出来うるか」ということへの最小限の対応として、 クボタからの救済は重要であり、かつ今後も対象内容を検討していかなければいけない。 そしてそのために「救済金運営協議会」というものを設立しているのだ。 救済金運営協議会は昨年、救済対象の距離の拡大などをクボタに要請した。
その結果、当初は「原則1キロ以内」となっていたのだが、1.5キロまでの方を対象に救済金を支払が行われるようになった。 しかし距離の問題は今後も大きな課題を残している。ちなみに、車谷先生たちの疫学調査では南方面には2キロをはるかに超して石綿が飛散したとみられる。

「クボタは救済金を支払っても責任を認めていない」と論じられる声もあるが、本当にクボタは責任を認めていないのか? 私は、クボタは自社の責任を認めていると考えている。 平成17(2005)年12月25日の社長の謝罪は責任を認めたうえでの謝罪であったと思う。 責任の無い相手になぜ高額な救済金を支払う必要があるのか? 名前こそ「救済金」となっているが、実質的な補償と言えるものである。 その当時は、国が「他で補償を得た者に対しては新法の対象にならない」と言っていた。 「救済金」という名前は、当時としてはやむを得ない策であった。

この救済金規定に合意した大きな理由の一つには、闘病中の患者さんの体調も慮られた。 もしも裁判に突入すれば多大な労力と時間が必要になる。 今日一日を頑張って闘病している方々にとっては、かけがえの無い大事な時間を消費することになる。 そしてある程度の結果が得られたとしても、個別に考えたら現在の救済金規定と大差はないだろう、との判断だった。 さらに、クボタが原因であるということは社会の誰もが認めている訳で、「クボタが原因ではない」釈明をすることが困難だ。

クボタは「旧神崎工場から石綿が飛散しなかったとは言い切れず、 周辺住民の方々にご迷惑をおかけした可能性は否定できないと考えております」と自社のHPで書いている。 さらには「個別の因果関係にとらわれることなく」一定の要件を満たす人には救済金を支払ってきたが、本来はすっきりと『自社の責任です』と言ってほしいところだ。 しかし現在、12月25日の社長の謝罪以後に発病された被害者に対して、クボタは一人ひとりに真摯に頭を下げて謝罪を行っている。 そのことに対して、私はそれなりに評価する。

しかしクボタには、まだやらなければならない大きな問題が残されている。 それは、当時の工場の状況と従業員で被害にあった方たちの検証をすることだ。 数十年も前のことはわからない。記録が残っていない、とクボタは言う。 だからこそ、今やらなければいけない。今ならまだ間に合う。当時を知る人もまだ証言しうるだろう。 月日が経過するにつれて証言者は減ってくるのだから、早急にクボタは私たちとともに過去の検証をしてほしい。 そのようなことを行ってこそ「社会的な責任」を果たすことになる。

クボタショック以後のこの2年間で最も大きなことは、 石綿救済法が制定されたことは勿論だが、今までは潜在的にしか語られていなかった各地の環境被害者が声を挙げたことだろう。 日本で最初の中皮腫患者を出したと言われている大阪府泉南地方。 古くからのアスベスト使用により、多くの被害者を出している。 それでも、このクボタショックが起こるまでは、社会的にも多くは語られてはいなかった。
「クボタショックが起こって初めて、私たちも同じだ!と 声を出すことが出来ました」とは泉南で石綿肺を患い、現在国に対して賠償訴訟を起こしている母娘だ。 岐阜県羽島市にあるニチアス羽島工場近隣でも多くの被害者を出していた。大阪府河内長野市でも然り。

河内長野市においてクボタショックの起こる直前の4月、52歳の若さで中皮腫により森本隆一さんが死亡した。 近隣の石綿工場からの曝露が原因だった。さらに近隣では多数の肺がん患者とプラーク所見者がみられる。

平成18(2006)年の1月、私たち患者と家族の会は、 石綿対策全国連とともに「アスベスト対策基本法」の制定を求めて要請行動やデモ行進を行った。 そしてそれから1年経過した平成19(2007)年3月には、全国各地からの環境公害被害の住民たちが集まってきた。 ここに、アスベスト被害は労働災害だけに留まらない公害史上最悪の「複合型ストック公害」(宮本憲一教授)となった。
当初から私は「クボタに始まって、クボタに終わってはいけない」と訴えてきたが、危惧は要らなかった。 残念ながら、私が予測した以上に被害は深く深刻であった。 この2年間でアスベスト問題はさらに深く、広がっている。アスベスト問題は始まったばかりだ。

クボタショックを風化させてはいけない。 クボタショックから学んだことを他の被害者の方たちの救済の教訓にして今後に伝えてゆかなければいけない。 そのような思いから決意したこの集会だ。
そして6月30日「クボタショックから2年・写真と報告でつづるアスベスト被害尼崎集会」は始まった(写真展はその前日から行われていた)。 集会の参加者は我々の予想を遥かに超して、準備していた資料も足らなくなった。 続々と詰めかける参加者が会場には入りきれなくて外にまで溢れ出してきた。 後で聞くと初日は300名、二日目は200名、延べ500名にも及ぶ多くの方が参加していた。 患者と家族の会も全国の支部から多数の会員が駆けつけてくれた。 中には、平成17(2005)年10月8日の「患者と家族の会尼崎支部設立集会」に 遠くから駆けつけて励ましてくれた会員さんたちもいて、その当時を思い返しながら互いに感無量の面持ちだった。

尼崎の悲劇は「クボタに始まって、クボタで終わらせてはいけない」と常に私は危惧していた。 しかしこの集会の開催により、アスベスト被害の実態はそのように生易しいものでは無いことが再認識できたのだ。 クボタショックにより、「やっぱり……」と声を挙げた人々が各地から集った。 横浜市鶴見区(旧朝日石綿工場)・岐阜市羽島市(ニチアス羽島工場)・奈良県王寺町(ニチアス王寺工場)・奈良県斑鳩町(竜田工業)・大阪府河内長野市(東洋石綿)・大阪府泉南市(旧三好石綿他多数の石綿工場)の近隣住民被害者が集会に参加した。

そして他にも日本全国にはもっと多くの被害地域が存在していることを忘れてはいけない。 多数の被害者を出したアスベスト関連工場の周囲には必ず、住民の被害が発生していた。 アスベストを吸った場所により「労働災害」と「環境被害」と呼び名が変わっている。 しかし、考えてみるとそのこと自体が問題なのではないだろうか。 同じものを吸って、同じ病気になる。苦しみも悔しさも無念さもみな同じなのに補償が違う。 労災以外の方の救済のために2006年3月に石綿救済法が制定されたが、その中身はお粗末なものだ。 それでも、何も無かった当時から見ればマシだ、という人もいる。
確かにクボタショックが起こるまでは「なぜこんな病気に……」と言いながら本人も家族も苦しい闘病生活を余儀なくされていた。 毎月の治療費の重みに耐えかねて、安心して療養をすることも出来なかった、と語った方もいる。

社会全体で石綿を広く使用して享受していたのだから、 被害にあった方への救済も広く皆で行いましょう……というのが石綿新法の趣旨である。 しかし、広く使用してきた結果、企業は多大な利益を享受したのだ。その利益の贖いに、人々は健康と命を差し出した。 そして、その事実を知り得ながらも知らんふりをしてきた国は、全国民の命を守る義務を放棄してきたのだ。
労働災害、環境被害と呼び名は違えども、間違いなく国と企業の犠牲になってきたアスベスト公害の被害者だ。 人類史上例を見ない悲惨な公害は、その曝露原因を問うことなく、全ての被害者に心からの謝罪をしなければいけない。 そのうえで全ての被害者を平等に補償しなければいけない。

人々は天災に遭遇するたびに、自然の厳しさを知り、その出来事を謙虚に受け止め、人間の叡智を持って対応してゆく。
人災は人間の利己と傲慢さによって引き起こされることが多く、そしてその解決に人々は勇気をもって対処してゆかなければならない。
一般の国民がアスベストの危険性を知らされないで使用し続けたことは、「享受」してきたことにはならない。 国と企業は勇気をもって自らの行為を反省し、謝罪し、償いを行わなければいけない。