私たちの体験

全国の石綿(アスベスト)疾患の患者・家族・遺族の声を届けています。
あなたのお悩みの解消に繋がりますように。仲間はきっといます。

片山千代栄
労災の低賃金について

アスベスト被害者遺族片山 千代栄さん

私の夫は電気工事の仕事をしていましたが、中皮腫を発症して1998年2月に亡くなりました。 夫の死後、労災請求できるとわかったのは2000年の4月頃だったと思います。 私の友達が東京にいて石綿関係の講演を聞いて、私の夫のことを思い出してくれました。 そして、私に労災遺族補償年金がもらえるから、と教えてくれました。私は東京の斎藤洋太郎さんに電話をし、 いろいろなことを教わりながら労災の請求をしました。

夫は入退院をしている時に、インターネットで調べて自分の病気が石綿関係であることがわかっていました。 しかしその当時に労災の申請をしなかったのは、あんまりアスベストのことは知らなかったし、そして何よりも、 主人は「病気」だから、という気持ちが強かったです。労災は「事故」というイメージが強かったです。
すぐに労災の請求をし、その年の10月頃に認定されました。夫が亡くなってからの遺族補償年金をいただきました。 休業補償は2年を過ぎていたので、時効になっていましたが、遺族補償年金だけでも支給されたことがうれしかったです。

でも、それから患者と家族の会に入って、私の労災認定の金額が低賃金であることを知り、すごく疑問を感じました。 中皮腫を発症したのが48歳のときで、亡くなったのが51歳です。 そして、病気になった原因は18~19歳の時に吸ったアスベストです。 働き盛りの48歳で仕事もできなくなり、51歳で命を奪われました。 夫は若くして会社を辞めたので社会保険加入期間も年数が少なく、定年退職金もありませんでした。 そして、労災の平均賃金は、夫が18歳の時の賃金で決められています。

若年時暴露し、のちに発症した患者は、低賃金の労災補償、社会的な不利益などを受けています。 現場の事故で労災になったかたは、その時の平均賃金で決められています。 どうして、アスベスト被害者は、発症した時の金額でもらえないのか不思議です。 こんな疑問を持った私がいけないでのでしょうか?教えてください。

渡邉正幸
石綿肺合併症として認定されるも、
労災日額は20代の賃金

アスベスト被害者渡邉 正幸さん

1975年7月、いわき中越株式会社に入社し、スレート切断作業に従事しました。 マスクを着けていましたが、昔のマスクはすき間が多く、かなり粉じんを吸ったと思います。 また、ダクトで構内の粉じんを吸い上げていましたが、吸い切れてはおらず、作業が終わると服は真っ白で、工場内は常に粉じんが飛散していました。 さらに私は、ダクトで吸い上げた粉じんをトラックに積み、工場裏の空き地に片づける作業も行いました。 このときの粉じんが一番飛散がひどかったです。

そして1990年代後半から、少し息苦しさを感じ、2005年に息苦しさが増し、咳が出てきたので、近医に受診したところ「肺気腫」と診断されました。

翌年、突然息切れを起こし、業務中のトラックから落ちて、腰を骨折して入院しました。 入院先で胸部CTを撮ったところ「肺気腫」でなく、じん肺の症状だとして労災病院を紹介されました。 労災病院で、間違いなくじん肺(石綿肺)だと診断されました。 同年、福島労働局にじん肺管理区分を申請し「管理3イ」と決定されましたが、療養の要否は「否」でした。 この際、じん肺健康管理手帳と石綿健康管理手帳が交付されました。

2007年に続発性気管支炎も合併していると診断され、いわき労働基準監督署に労災請求し、2007年12月に労災認定されました。 当初療養補償のみ受給していましたが、じん肺の悪化により2010年8月に退職を余儀なくされ、休業補償も受給するようになりました。
労災は療養補償の一環として、ガソリン代を含め通院費が支給されますが、監督署はその権利を教えず、労災認定後10年経って通院費が支給されることを知りました。 療養補償の時効2年以内しか支給されず、8年分は時効になってしまいました。 また、労災給付基礎日額は、50代で発症したのにも関わらず、20代の平均賃金です。 給付基礎日額は、石綿の「最終粉じん事業場」という物差しだけでは、公正に救済されません。 石綿粉じんに暴露して、発症するまで長い時間がかかっているからです。労災のけがが起きた場合とは、かなり違います。

ぜひ労災日額を公正に是正する制度を、救済法の「厚生労働省関係」として創設してください。 また、労災などの制度について、厚生労働省はちゃんと周知すべきです。
現在在宅酸素を使い、不自由な思いもあります。肺がんを二度発症し、また、肺炎のため息苦しく、入退院をくり返してきました。 「もうダメか!」という気持ちと何度闘ってきたか、でも生きることができ、うれしいと思っています。

父親を亡くした長男の立場から
アスベスト被災者について

アスベスト被災者遺族田中 淳也さん

父親が他界したのは2004年、クボタショックの前の年の年末でした。もう19年経ちます。享年60歳でした。父は20代から30代にかけ建設関係の仕事に携わっており、当時の日本は高度成長期の中、そういった現場でホコリまみれになって現場仕事していた方は多かったはずです。特にスレートを使った建設物が多い時代でした。スレートを切ったり削ったりして粉塵まみれになっていた姿が思い浮かびます。

「気分良く、汗水流しいい仕事をして自分で稼いだ金で家族のために、生活のために、清々しく誇らしい。」そのような力強い心を持った職人さん達がたくさんいたと思います。そのような人達がアスベスト被害に遭われているのですから心が痛みます。

「自分が良かれと思いがんばってきたのは何だったのか? その仕事に裏切られたのか? 会社に裏切られたのか? 社会に裏切られたのか? 国に裏切られたのか? いったい何が悪かったのか・・・」本人の心はとても辛かったことでしょう。当時の病院はアスベストの認知がほぼ無くほとんど何も治療が出来なかったのです。また、当時の僕は両親と仲が悪く、発病してからいろいろと考えるようになりました。もちろん感謝の気持ちもあり大変複雑な気持ちでした。一番辛いのは、あの時のまま父との関係が止まっている事です。「ありがとう」も言えず親孝行も出来ない。あの時の複雑な心がそのまま止まっている感じです。専門家に診てもらえばPTSD,パニック障害、不眠症、鬱病、と診断するような面もあります。同じように、複雑な気持ちにふたをしてしまっている方もいらっしゃるでしょう。

国もメーカーも司法も具体的な見て分かるものにフォーカスして、目に見えない領域、つまり人間にとって一番大事な所「心」をどう認知して判断しているのでしょうか。道徳観というものが分からなくなります。

とは言え、遺族という弱者の立場で何か言いたい訳でも無く、弱者になっている訳でもないのです。それぞれ私にもあなたにも目の前には、今と言う自分の人生があるのです。過去に囚われている暇は無いのです。前を向き過去に囚われず、今出来ることを今の自分として行動しましょう。遺族の息子さん娘さん、何か集まるイベントがあれば是非とも顔を出して下さい。現状の課題として、①メーカーとの裁判も控えています。②遺族年金のもととなる給付基礎日額の低額問題、③国は建設アスベスト給付金より大きい器で隙間の無い救済を早急にすべきです。時間は常に経過しています。

最後になりますが、現在闘病中の方々、そのご家族の方々、ご遺族の方々、ネガティブな感情や過去に囚われず、今を生きましょう。皆様の心が少しでも安らげますように願っております。またどこかの会場で見かけたら気軽に声をかけていただけると嬉しいです。